近頃、スマートスピーカーなどの一台で完結する手軽なオーディオ機器が一気に広まったこともあり、もはやスピーカー2台を使ったステレオ再生がどんどん廃れ、その素晴らしさが見過ごされてきているように感じます。そこでスピーカー一台で聴くモノラルからステレオに変わっていった大転換の歴史について調べてみました。
実はステレオ再生が発見されたのは今から140年も昔のことでした。それは1881年パリで開催された「電気博覧会」で、フランスの発明家クレマン・アデール(Clément Agnès Ader、仏、1841~1925年)が、グラハム・ベルによって作られた電話を改良し、オペラ座と万博会場という遠距離をつなぐ2系統の電話回線の実験中でした。2本のマイクをオペラ座に設置し、2本の受話器を万博会場に置くことで、来場者にオペラ座とのライブ生中継を楽しんでもらう試みでした。ここで偶然、2本のマイクに繋がった受話器を右耳と左耳にあてて聞くと、あたかもその場にいるような臨場感がひろがったのでした。
当時のサイエンティフィック・アメリカン誌は「産業宮(博覧会会場)でこの電話を聴く幸運に恵まれた人々は、2つの電話機で両方の耳で聴き、口をそろえて1つの受話器では生み出せないような臨場感があったと述べた… この現象は非常に奇妙である。それは双聴覚的音響の理論の近似であり、我々の知る限り、これまでになかったものである。この驚嘆すべきイリュージョンは立体音響の名にふさわしいかもしれない」と当時の衝撃を生々しく伝えました。
人は位相差といって、左右の耳に届く音の微妙な時間差と音量差でモノとの距離を測ることができます。2本のマイクがとらえた音は人の耳と同じようにその場の風景そのものを捉えてることになり、2本のスピーカーがそれを再現しています。こうして偶然にも人々はステレオの効果を発見したのでした。その後、1930年代には映画館でのステレオ音響の導入が開始され、そして戦後、1950年代ごろから家庭でもステレオ装置の普及が急速に広まり始めました。
音楽を制作される方ならご存知だと思いますが、多くの音源がLRのステレオで作られ、その歴史は90年以上あることになります。つまりステレオで聴かれることを前提に音楽は制作されています。現在のモノラル化の兆候は140年前に人類が偶然にも獲得した智恵と技術で音楽を生々しく再現できることをわざわざ無視して単なる情報として音楽を聴取することを目的にしている気がします。実際にlistudeに試聴に来て頂いたお客さんとステレオで聴いた音源をモノラルで聴き直して比べて頂くと、皆さん「楽器や人の気配が消えて単なる情報としての音のように味気なくなった」という感想を述べられます。
単に技術があるのにもったいないという話ではなく、音楽を聴く側の環境が作る側に反映されていくのは歴史から見て明らかで、それは音楽そのものが退化のスパイラルにのみ込まれていくことを意味するような、そんな危機感を抱いています。